それは綺麗だった。廃ビルの屋上から街を見下ろした男は額の汗を拭って、その感慨に耽る。 倒壊した建物。穴だらけのアスファルト。人影のない、静寂な街。粉塵や煙によって汚染された空 気によって普段は見えないはずの太陽も、強風故か、今だけは夕照としてその顔を覗かせる。眩 しい落暉に男は心を奪われた。瓦礫や人のカタチをした何かが積み上がったこの街にも、美しい 場所があったのだと。息を飲むほどの鮮麗な景色を目に焼き付けながら、歩をまた一つ進めた。 核戦争から何ヶ月が経っただろうか。いつからか日を数えるのを止めた。壁に刻まれた五本線 は二十三と三つの線を残して、そこで終わっていた。少なくとも四ヶ月ほどの日は確実に経ってい る。誰も助けに来ない。食糧も、水もあと僅か四、五日分ほど。ただ喉は既に渇き切っているとい うのに、一滴もその水を通そうという気力はなかった。通さねばならないと思っても、身体が動か ない。集った蝿を目で追うだけの日々、暗い夜のように心は闇で覆い尽くされていた。しかし直に この家から旅立たねばならない。新たな住まいを求めて、新たな食糧を求めて。生き残るために 愛する家族が亡くなったこの家から発たねばならない。前を向かなければならない。 二週間ほど前のことか、妻が死んだ。俺と娘を残して、先立った。結婚してもうすぐで十年、六 歳の娘と妻のお腹の中の息子との順風満帆な幸せを絵に描いたような生活はたった一つの戦 争をきっかけに地獄と化した。幸せだったのに、何もかもが上手く行っていたのに。あり得たかも しれない世界のことを思うと、胸にぽっかりと穴が空いたように悲しくなる、寂しくなる。 「俺たちにはまだ明日がある」 なんて無責任な言葉を放った後悔が弱毒のようなしこりを心に残した。お腹の中の子供が既に亡 くなっていることに最初に気づいたのは妻だった。きっと強い放射能を浴びたせいか。元気にお 腹の中を蹴る胎動が消えた。 「この子に明日なんて、来ないのよ」 泣きながら彼女は言った。それから数時間後、寝室で首を吊った彼女を発見した。憔悴した眼、 痩せこけた頬、草臥れた顔。もがき苦しんだような引っかき傷が紅くその首に残っていた。どうや ら楽に死ねなかったらしい。宙ぶらりんになった彼女を強く抱きかかえて、優しくその頭を撫でた。 娘には妻が自殺をしたという事実は伏せて話した。二人で庭に穴を掘り、そこに亡くなった妻の 遺体を埋めた。弟はどうなったの、と聞いた娘に首を静かに横に振った。優しい子で、強い子だっ た。自分の分のご飯をお腹の中の弟のためと、妻に譲ろうとするそんな子だった。そんなことが あったからか、弟が亡くなったと知った娘は妻が死んだときよりもずっと落ち込んでいるように思 えた。 これからは娘のためにも必死に食糧を探さなければならなかった。粉塵で太陽は覆い尽くされ ていることが多かったが、日中は血眼になって生きるための食餌を探し回った。生モノは基本傷 んでおり、食糧にはならない。残り僅かの加工品も他の生き残りたちの手によって近辺の家々か らは失くなっていた。しかしある時、幸運なことに珍しく大量の食糧が入手できた。その全てを余 すことなくリュックに詰め込み、娘の待つ我が家へと駆けた。だがまるで家の中はもぬけの殻の ようで、勇んで踏み込んだ足音だけが反響して耳朶を打つのみ。慌てて家中を捜すと、リビング で力なく倒れ伏している娘の姿が目に飛び込んだ。ひと目見て事切れていると分かる有様、ただ その表情には苦悶の色もなく、穏やかな微笑みだけがあった。栄養失調だった。いつも元気に振 る舞う強い子だったからこそ、そんな単純な変化にも気づくことができなかった。愛する家族と過 ごしたこの家で、たった一人俺は残された。疲れ切っていて声も出ない。愛する家族を亡くした悲 しみに打ち拉がれ、何もする気が起きなかった。ただ、呆然と天井を見上げ、時間が過ぎるのを 待っていた。そんな日々だけが続いた。 リュックに全ての食糧が詰め終わり、俺は静かに旅立ちの決心をする。もうこの近辺に食糧らし きものは無い。己が生き残るためにはこの家を発たねばならなかった。家族と過ごした大切な場 所を踏み荒らされたくないという思いからか、戸に鍵を掛け、家を出た。外は相変わらず暗く、そ して静か。何処へ行くのか、決まっていない。まともな食事もここ数日摂っておらず、足が重い。だ が生きるためには歩き続けなければならなかった。それから数時間が経って、街の中心部近くの 大型スーパーまでやってきた。息を切らしながらその開口部まで移動するが、中からはゴミや埃 の臭いが漂ってくる。そして慌てて飛び出てきたような武装した二人の中肉中背の男たちにその 進行を止められる。 「止まれ! この先は立ち入り禁止だ!」 俺は驚いて立ち止まった。手製の槍を構えた二人の表情は険しい。 「済まなかった。俺はただ食糧を探してただけなんだ」 「ここは俺たちの縄張りだ」 「お願いだ……。食べ物がなければ死んでしまう……」 「だめだ、俺たちも生きるのに必死なんだ。新参者に分け与えられるほどの食糧の余裕はない」 「そうか……」 俺は悔しさを抱えながらも、二人の男たちの言葉に従うしかないと悟った。彼らも生きるために 必死なのだ。食糧を求める旅を続ける中で、他の生存者との出会いや資源の争奪は避けて通れ ない現実、彼らも生き残るために戦っている。 「……わかった。もう邪魔はしない」 俺は諦めながら言った。二人の男たちは少し驚いた表情を浮かべ、こちらに視線を向ける。そし て、少し考え込んだ末に片方の男がその口を開いた。 「君、生き残るためには他の場所を探すべきだ。この街はもうほとんど食糧が残っていない」 彼らの言葉に俺は深く頷いた。この街ではもはや生き延びることは難しいのだろう。しかし、どこ に行けばいいのか、どこに食糧があるのか、それはまったく分からない。見当も付かない。 「他の場所…どこかに食糧はあるのか?」 男たちは顔を見合わせ、少し困った表情を浮かべた。 「正直なところ、確証はない。でも、廃墟や避難所、農場、野菜畑など、食糧を探す可能性がある 場所はあるんだ。ただし、そういった場所も他の生存者が探し当てているかもしれない。競争が 激しくなることもあるから、用心しないといけない」 俺は再び頷いた。もうこの世界では、食糧を巡って他の人々と争わなければならない。それは避 けられない現実なのだ。 「ありがとう。他の場所を探してみるよ。君たちも生き延びるために頑張ってくれ。」 男たちは少し驚いた表情を浮かべたが、それから首をゆっくりと縦に振った。 「お互いに頑張ろう。君が食糧を見つけられることを祈っている」 彼らとの別れを告げ、俺は再び旅に出ることを決めた。食糧を求めて、そして生き延びるため に。 スーパーから立ち去った俺はひたすらに北を目指した。アスファルトは剥がれて崩れかけてお り、草が生い茂っている。この街も、かつて栄えていた痕跡が今はただの廃墟と化している。人々 の生活が消え去り、ただ静かなる死の世界が広がっていた。日がもうすぐで暮れかけるだろうと いう頃、一つの避難所に辿り着いた。壁はガタガタと揺れ、屋根は一部崩れ落ちていたが、まだ 建物としての形状は保たれている。中には既に生きた人間はいなかった。人が暮らしていたよう な痕跡は見て取れたが、それがいつのことなのかは分からない。散らばった包装紙やビニール パックの存在が何処かの誰かの暮らしの跡を残していた。 俺は避難所の中をゆっくりと歩いた。壁には落書きがされていたり、床にはガラス片が散乱して いたりしていた。誰かがここに住んでいたことは間違いなかったが、やはりいつ頃に誰が住んで いたのかはわからない。 しばらく避難所内を探索していると、ふと、物音が聞こえた気がした。俺は音のした方へ振り 返った。そこには、一人の少年が立っていた。少年は随分と若い年頃に見えた。おそらく十歳か、 その程度だろう。彼は、俺を見て、驚いたような顔をしていた。 「誰だ?」 俺は少年に尋ねた。少年はしばらく言葉を失っていたが、やがてその口をゆっくりと開ける。 「近くに住んでいる。ごはんを探しにきた」 「ここに?」 少年はこくりと頷く。 「でもここには何も残っていなかったんだ。でも、他の場所も探し尽くして……もう食べるものがな くて…」 少年の声は弱々しく、餓えに苦しんでいる様子が伺えた。彼は衰弱しているようで、服も汚れて いて痩せ細っていた。俺は同情と共感の気持ちが湧き上がり、彼に手を差し伸べる決断をした。 「君、名前は何ていうんだ?」 「ケイ」 「ケイか。よく生きていたな。大変だったろう。家族はいないのか?」 「家に二人。母さんと生まれたばっかりの妹。父さんは死んだ。でもおれ、長男なんだ」 俺はケイの言葉を聞きながら、思わず自分の家族を思い浮かべた。妻の笑顔や娘の明るい声 が脳裏に浮かんできて、胸が痛くなった。自分の家族との比較を避けられなかった。心の奥深く には妻と娘、そして彼女のお腹の中にいた子供への思いがあり、その喪失の痛みが再び湧き上 がってきた。 「ケイ、俺も家族を失ったんだ。妻と娘がいたんだけど、彼女たちはもうこの世にはいない」 ケイは目を丸くし、驚きと同情の表情を浮かべた。ただすぐに同じような悲しみを共有する存在 に安心感を覚えたのか、少しだけ安堵の表情を見せた。ケイはしばらく言葉を失っていたが、や がて頷きながら言った。 「……辛かった。でも今は一人じゃないって思える。ありがとう、おじさん」 俺はケイの言葉に微笑みながら、それでもやはり靄のように悲しみが心を覆っていた。ケイの 存在は心の傷を癒す一方で、失われた家族の思い出を蘇らせてしまう。ケイは俺の心情を察し たのか、静かにそばに寄り添った。彼は言葉にせず、黙ってそばにいることで俺に寄り添い、そ の感情を受け止めることを示しているようだった。 「ケイ、このリュックには一週間ほどの食糧が入っている。これを君の家族のために使ってくれな いか?」 ケイは驚いた表情を浮かべ、断りたそうに口を開こうとしたが、俺の目を見てその言葉を飲み込 んだ。しばらくして、ようやく口を開いた彼は頭を下げながら言った。 「本当にありがとう、おじさん」 俺はケイの肩を軽く叩き、微笑みながら言った。 「ケイ、君にはまだ明日がある。希望を捨てずに進んでくれ」 ケイは感謝の言葉を口にする前に、形容しがたい逡巡の表情を浮かべていた。その胸の中で 湧き上がる感情に押し潰されそうな、そんな表情で。俺はケイとの出会いが奇跡のようなもので あると感じた。一人きりで飢えや孤独に苦しむ中、救いの手が差し伸べられたような気がした。 「おじさん、これからもずっと忘れないでいます。ありがとう、そして気をつけて」 ケイはリュックを抱え、感謝の気持ちと共に別れの言葉を告げた。そのまま静かに避難所を後 にし、その背が小さくなって見えなくなるまで歩き続けた。彼はその背に持った食糧を持ち帰るた めに力強く歩みを進めた。ケイは家族のために生きる決意を新たにし、その希望を胸に抱いて未 知の道を進んでいった。 俺は避難所から立ち去りながら、さまざまな思いが心を渦巻いた。ケイとの出会いを通じて、自 分自身も少しずつ癒されていくことを感じていた。俺はケイに希望を託し、自らは新たな道を歩む 覚悟を持っていた。避難所を背にして、俺は再び荒れ果てた街並みを歩き始めた。孤独な旅路を 選び、自らの内なる闘争と向き合う覚悟を持っていた。 辿り着いたのは荒廃したビル。そんなビルの前に立つ俺は、その壮大な姿に圧倒された。かつ ては人々が生活していたであろう建物が、今や荒れ果てたまま残されている。壁は剥がれ落ち、 窓ガラスは粉々に砕け散っている。俺はビルの中に足を踏み入れた。廊下は暗く、足元にはガラ スの破片が散乱していた。歩くたびにガタガタと音が響き、不安定な建物の状態がより明確に伝 わってくる。しかし、その不安定さもまた、俺にとっては前に進むための証だった。廊下を進むと、 何かしらの光が見えた。光の射す場所に辿り着くと、そこには小さな窓から差し込む陽光が美しく 輝いていた。その光に導かれるように、俺は階段を上っていった。上階に辿り着くと、壁には落書 きがされていた。かすれているが、何人かの人々がこの場所を通り過ぎたことが伺える。生き抜く ためにこの廃墟を訪れたのだろうか。部屋に足を踏み入れると、そこにはがらんとした空間が広 がっていた。家具もなく、ただ壁にかけられた残された写真や絵画が、かすかな記憶を物語って いるようだった。廃墟の中に漂う静寂が、俺の内なる思考を鎮める。階段を登り続け、遂には屋 上へと辿り着く。辺りを見ると、そこには荒れ果てた街並みが広がっていた。この街も、かつては 人々が暮らし繁栄していた。しかし、それはもはや過去の栄光であり、今はただ廃墟と化した姿 が残されている。風が荒れ狂う屋上で、遠くの風景を見つめながら深い溜息をついた。街の廃墟 としての様子は、心に寂寥感と哀愁を呼び起こすものだった。この廃墟の街で何が起きたのか、 何が原因で人々がいなくなってしまったのか、たった一つの核戦争が全てを変えた。人々の営み を、暮らしを、そして希望を。粉塵の合間から差す陽光に包まれながら、俺は心の奥深くに刻まれ た思い出がよみがえるのを感じた。かつては笑い声が響き渡り、人々が生き生きと交流し続けて いたこの街。しかし、その喧騒は静寂となった。遠い過去の幸せな瞬間を思い出す。妻と娘との 幸福な日々、その思い出がまるで映画のように脳裏に映し出される。妻の温かな微笑み、娘の 無邪気な笑顔、そして家族みんなで過ごした楽しい時間。それらはもはや現実のものではなく、 ただ心に刻まれた大切な宝物となっていた。俺は一歩一歩力強く前へと踏み込んだ。ただ一つの 決意を胸にして。 明日なんて、来なければいいのに。